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ひとは、なんで生きるか、
こころで生きる。つまり、肉体はこころのちからだ。いかようにもなる。まあ、それだけではないにしても、こころの存在は大きい。
夢、希望、喜び、前向きな心、そういったものはからだにプラスに作用する。
しかし、絶望、悲しみ、怒り、後ろ向きなこころは、からだを蝕んでいく。
そんなこと言ったって仕方がない、
自分ではなくて外部に要因があるのだからという人がいる。
ところが、どっこい長生きしているひとをみていると、そうではないらしい。
もし、心に両面があるとすると、いい面だけをみている。
正しく生きている。

優しい心とか、思いやりとか、あるいは謙譲、慈愛、そういった心の出所が違うのだ。
強いのだ。背景に強い心がある。人生に映像があるとしたら、自分にここちよいほうを観て暮らしている。
悪いほうは、みもしないし、ふりむきもしない。その根底を強い心が支えている。自分は正しいのだという信念がある。

私は、このごろ座る(座禅)ということをしなくなった。つまり、としをとって、心の操縦ができるようになったことが、その大きな要因だ。
うまいこと、やりこめてしまうのだ。なに、自分のこころをだ。

私の父も、母もいいひとだった。でも、いつも世間に翻弄されていた。いい人であろうとした。そして、いいひとだから、いつも自分を責めていた。ついには、早世した。
母が最後、病床で残した言葉の端切れに、ぼんやり、窓に映る春、桜をみながら、
誰に言うともなく「なにか、私、悪いことをしたのかしら、」という一言がある。それを真剣に探していたふしがある。

私はとうに、父も、母の歳も追い越してしまった。(支部長)
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勝手に謝罪

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