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地名は歴史である。そして、地形は
その上を歩いて、生活した人々の影をのこしている。
町名変更。区画整理や、耕地整理が恨めしくなるときがある。
身勝手なのはわかるが、
合理性という実際のかたわらで、惜しむように散歩している。(武蔵)


私の家の前は、三橋城の城跡です。本丸にはイチョウの木が空にそびえています。
地名は「舘の内」です。
DSC05664.jpg


お堀跡が、6メートル幅の高規格道路になります。
 DSC05663.jpg


三橋城

天正一七年(一五八九)六月五日、出羽米沢(長井)の城主伊達政宗は会津の領主蘆名義広を磐梯ばんだい山麓の摺上原すりあげはら(磨上原)に破った。居城である黒川くろかわ城(のちの鶴ヶ城、現会津若松市)に逃げ帰った義広を追って、政宗は翌六日、蘆名氏残党の籠る「金川・三橋」の城を攻め、七日には三橋城を自らの陣所としている。一方、敗将となった義広は家臣団からも見放され、同月一〇日夜には黒川城を出奔、陸奥白河に落延びた。政宗は一一日には三橋城から黒川城に移り、蘆名氏累代の所領であった陸奥会津・河沼かわぬま大沼おおぬま耶麻やまの四郡、いわゆる会津四郡をその掌中とした(『伊達天正日記』・『貞山公治家記録』など)。
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愛情にも

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